金曜の朝に話したこと|全社朝礼から生まれた8つのエッセイ

金曜の朝に話したこと|全社朝礼から生まれた8つのエッセイ

毎週金曜の朝、全社朝礼の最後に数分だけ話をしています。
この記事は、2026年4月から7月までの18回の朝礼から、仕事にも人生にも持ち帰れる8つのテーマを選び、エッセイとして書き直したものです。
どの篇からでも読めます。

「1%の余白」を持って話す

毎週金曜の朝、全社朝礼で数分だけ話をしています。この記事は、その中から「コミュニケーション」について話した回を深掘りしたものです。

人は、自分が正しいと思って話す

人はみんな、自分の発言を正しいと思って話します。

これは責められることではありません。人間の目は前にしか付いていないし、僕たちは自分が見てきた世界しか見ていない。自分の経験から導いた考えを「正しい」と思うのは、構造的に仕方のないことです。

問題は、そこで止まってしまうことです。

僕が意識しているのは、「自分は1%くらい間違っているかもしれない」と思いながら話すこと。たった1%でいい。この余白があるかないかで、コミュニケーションの質は驚くほど変わります。

忘年会の失敗談

僕自身の失敗談があります。

会社の忘年会で「家族を呼んでもOK」と発言したことがありました。意図はシンプルで、オープンな会にしたかったし、普段お世話になっている家族の皆さんにお礼がしたかった。悪いことだとは微塵も思っていませんでした。

ところが後日、こういう意見が届きました。「世の中には子どものいない家庭もある。子どもを連れてくる家族もいるだろうから、配慮が足りないのではないか」。

正直、その意見が「正しい」のかどうかは、今もわかりません。言い過ぎではないかという声もありました。でも、ひとつだけ確かなことがあります。僕の「家族を呼んでもOK」という発言自体が、100%正しいわけではなかった。それは間違いない。

正しさは、事実だけでは決まらない

この経験から学んだことがあります。

何かが正しいか正しくないかは、それが事実かどうかだけでは決まりません。みんながそれを正しいと思うかどうかで決まる

全く同じ内容でも、誰が、どのように伝えるかで、正しさの受け取られ方は変わります。「事実として合っているのに、なぜ受け入れられないんだ」と憤ったことがある人は、この構造を思い出してみてほしいんです。合っているかどうかと、正しいと受け取られるかどうかは、別の話なんです。

1%の余白は、自分を楽にする

そして、この「1%の余白」には、相手のためだけではない効能があります。

意見が割れたときのことを想像してください。自分が正しいと思い込んでいると、腹が立ちます。「なんで一致せえへんねん」と、相手を責める気持ちが湧いてくる。

でも、自分が間違っている可能性を1%でも残していると、まず、自分が楽になります。意見の不一致が「攻撃」ではなく「別の視点」に見えてくる。相手へのリスペクトを保ったまま、対話を続けられる。

完全な確信は、実は脆い。1%の余白を持った確信のほうが、しなやかで強い。

チームがどんどん良くなっていく余地は、この1%に宿っていると思っています。

人は、やったことのないことにしか不安を抱かない

組織の人事を大きく変えた月がありました。新しい役割を任された人たちの顔には、期待と同じくらい、不安が浮かんでいました。そのとき朝礼で話したのが、この話です。

不安の正体

まず、シンプルな事実から始めます。

人間は、やったことのないことにしか不安を抱きません。

やったことのあることには、絶対に不安を抱かない生き物です。初めての通勤路は不安でも、100回通った道に不安はない。初めてのプレゼンは眠れなくても、100回目のプレゼンで眠れない人はいない。

つまり、不安の正体は「未経験」です。能力の欠如でも、性格の弱さでもありません。

不安と成長は、同じ扉から入ってくる

ここからが本題です。

やったことのないことに挑戦して、初めて得られるものがあります。それが成長です。

この2つを並べると、面白いことがわかります。不安は未経験からしか生まれない。成長も未経験からしか生まれない。つまり、成長するためには、不安を抱かなければいけない

ひっくり返せば、こうも言えます。不安を一切感じていない人は、成長角度が著しく低いということです。ずっと快適だということは、ずっと「やったことのあること」の中にいるということだから。

不安なき成長はないし、成長なき人生に彩りはない。僕はそう思っています。

だから、新しい挑戦を前に不安になっている人に伝えたいのは、「不安がるな」ではありません。逆です。その不安は、いまあなたが成長の入口に立っている証拠だ、ということです。

処方箋は「学ぶこと」

とはいえ、不安をただ抱えて飛び込むのはしんどい。処方箋があります。学ぶことです。

学びがあると、未経験のことでも「どうクリアするか」のイメージが持てるようになります。そしてもうひとつ大事なのは、自分と同じような人が、別の場所で、過去に、実践してできたという事実を知れること。前例を知っているだけで、「自分もできるかもしれない」という自信の足場になる。

学ぶことで自分に余裕を持つ。これは仕事のテクニックというより、生きていく上での肝だと思っています。

サンクコストを捨てる覚悟

もうひとつ、組織の話を足します。

歴史のある組織には伝統があります。伝統は強さです。でも同時に、見方によっては負債でもある。「ずっとこうやってきたから」が、変化を止める錘になる。

負債を乗り越えるときには、必ず大きな不安が発生します。これまで費やしてきた時間やコスト、いわゆるサンクコストを捨てる覚悟が要るからです。

でも、どうせいつかやることは、すぐにやったほうがいい。不安が出てきたら、それは方向が合っているサインかもしれないのだから。

スーパーパワー。人の力は定数ではなく、変数である

「人が足りない」。どんな組織でも聞く言葉です。介護の現場では、なおさらです。

でも、同じ人数、同じ環境のままで、チームの動きが一気に良くなることがあります。朝礼でその方法について話した回を、深掘りします。

人の力は、定数か変数か

まず、質問です。

人の力は、固定された「定数」だと思いますか。それとも、成長していく「変数」だと思いますか。

こう聞かれたら、ほとんどの人が「変数だ」と答えると思います。人は成長する。当たり前です。

でも、実務を振り返ってみてください。「人が足りない」と嘆くとき、僕たちは無意識に、いまいるメンバーの力を定数として計算しています。Aさんはここまで、Bさんはここまで。その合計が足りないから、人を増やすしかない、と。

「人は変数だ」と信じていることと、それを実務に取り入れていることの間には、大きな溝があるんです。

スーパーパワーとは何か

僕は「スーパーパワー」という言葉をよく使います。

スーパーパワーとは、その人がまだ表に出していない、ときには本人すら気づいていない、潜在的な力のことです。

実例を話します。周囲とのコミュニケーションに消極的だった人がいました。会議でも発言は少ない。いわゆる「目立たない」メンバーです。その人に、初期投資が数百万円かかるプロジェクトを任せたことがあります。

結果、プロジェクトは大成功しました。でも本当の成果はそこではありません。その人が、リーダーシップを発揮する人に変わったことです。力が新しく生まれたのではありません。もともとあった力が、機会を得て表に出てきた。それがスーパーパワーです。

「もしかしたら」から始まる

では、どうやって見つけるのか。

特別な適性検査は要りません。1on1や日々の対話の中にある、「もしかしたら」の気づきです。

もしかしたら、この人は本当はもっと大きな野望を持っているかもしれない。もしかしたら、もっと成長したいと思っているかもしれない。この小さな引っかかりを、流さないこと。

そして、リーダーに求められるのは2つです。

ひとつは、その可能性を信じて、「今の実力からすると結構なステップアップだな」というレベルの仕事を、一回任せてみること。安全圏の仕事を任せても、スーパーパワーは表に出てきません。

もうひとつは、うまくいかなかったときにカバーできる体制を、先に作っておくこと。これこそがリーダーの仕事です。任せっぱなしは委任ではなく放置です。挑戦する本人が思い切り飛べるのは、下にネットが張ってあると知っているときだけです。

不安は織り込み済み

任された本人は、当然、不安になります。

でもそれでいい。人はやったことのないことにしか不安を抱かないし、やったことのないことでしか成長できない。不安があって初めて、人は新しい世界を見ます。

リソースが足りない、もう限界だ。そう感じたときこそ、問い直してみてください。本当に足りないのは人数なのか。それとも、誰かのスーパーパワーを見出す目なのか。

定数だと思っていたものを変数にする。この視点の転換は、チームの中だけの話ではありません。「どうせ変わらない」と社会全体が諦めてしまっている当たり前を疑い、変えていくことにも、きっとつながっています。

意思決定とは、失うものを決めること

「意思決定」というと、何かを選び取る行為に聞こえます。でも僕は、逆から定義したほうが本質に近いと思っています。

Aを選ぶとは、Bを失うこと

意思決定とは、Aを選ぶとき、必ずBを失うということです。

何かを得れば、必ず何かを失う。これは例外のないルールです。転職して新しい環境を得れば、積み上げた信頼をいったん手放す。専門性を深めれば、幅を広げる時間を失う。どちらが正しいという話ではなく、選ぶとはそういう構造だという話です。

ここまでは、多くの人が頭ではわかっています。厄介なのは、ここからです。

「両方選びたい」が最も高くつく

AもBも捨てがたい。両方のいいとこ取りをしたい。この感情は、必ず湧いてきます。

そして、両取りを狙ったときに何が起こるか。見えていなかったC、D、Eが、一気に失われます。

家族での食事を想像してください。お寿司がいい、お肉がいい、ラーメンがいい。意見が割れた。では全部あるファミレスにしよう。

この意思決定で失ったのは、パスタでもラーメンでもありません。「本当に美味しいものを食べる」という、そもそも取りに行くはずだった価値そのものです。寿司職人の寿司も、専門店のラーメンも食べられない。全員の希望を足し合わせた結果、誰の希望も本当には叶っていない。

会議で全員の意見を「少しずつ全部」取り入れた企画が、誰の心も動かさないものになる。あれと同じ構造です。トレードオフから逃げた意思決定は、トレードオフを引き受けた意思決定より、失うものが大きい。

人は「足りないもの」しか見えなくなる

もうひとつ、人間の性質の話をします。

人は、自分に足りていないものに注目してしまう生き物です。無いものが目に入り、有るものは背景に溶けていく。

すると、2つの見落としが起こります。ひとつは、足りないものを見つめすぎて、いま得ているものを見失うこと。もうひとつは逆に、得ているものに満足して、取れていないものに気づかないこと。

だから僕は、こう問い続けることにしています。

自分はいま、何が取れていて、何が取れていないのか。

仕事なら、こうです。利用者さんに、何が提供できていて、何が提供できていないのか。果たしてこれでいいのか。「できていること」と「できていないこと」を、常に両方、視界に入れておく。

隣の芝が青く見えたら

この考え方は、他人を羨むときにも効きます。

隣の芝は青く見えます。あの会社は、あの人は、恵まれている。そう感じたときは、比較の観点を変えてみてください。

あちらは何を得て、その代わりに何を失っているんだろう。

すべての選択はトレードオフです。青く見える芝の下には、必ず、手放されたものが埋まっています。それが見えたとき、自分の選択が失ったものと得たものも、初めてフェアに評価できるようになります。

選ぶことは、失うことを決めること。だからこそ、何を失うかまで自分で決めた選択は、強いんです。

行動の理由は、感情以外ありえない

小学校の国語の授業で習ったことが、大人になってから一番効いている、そんな話を朝礼でしました。

「理由の最後は、感情で答えなさい」

小説の読解問題に、こういう設問がありますよね。

「太郎さんはなぜこの行動をとったのか。理由を答えなさい」

僕は先生に、こう習いました。「理由の最後は、感情で答えなさい」。寂しかったからです。悲しかったからです。嬉しかったからです。そう書きなさい、と。

当時は「国語のルール」だと思って、機械的に従っていました。でも大人になって振り返ると、あれはルールではなく、人間の本質だったんだと思います。

人間の行動の理由は、突き詰めれば、感情以外ありえない。

論理は行動を説明できますが、行動を起こすのは感情です。「正しいからやる」のではなく、「正しいことをしている自分でいたいからやる」。どんなに理屈を積み上げても、最後の一歩を踏み出させるのは、いつも感情です。

感情は、事実の「塗り方」で変わる

ここからが本題です。感情には、面白い性質があります。

ひとつの事実に対して、いくらでも多様な捉え方ができるんです。

たとえば「学ぶこと」。研修、資格の勉強、新しいツールの習得。正直、普通は面倒くさい。やりたくない。これが自然な感情です。

でも、「これは目の前の誰かのためになる」「これは将来の自分のためになる」と捉えた瞬間、何が起こるか。学ぶという事実は何ひとつ変わっていないのに、感情がネガティブからポジティブに変わる。

事実は変えられないことが多い。でも、事実の塗り方(どの色で塗るか)は、いつでも自分で選べます。

壁は、乗り越えるために存在している

この「塗り替え」の力を、僕はスポーツで思い知ったことがあります。

ワールドカップで日本代表が強豪と対戦した朝のことです。試合終盤、正直に告白すると、僕は70%くらい「もう無理かな、負けるかな」と思ってしまっていました。でも選手たちは、90分終了間際にゴールが来ることを一瞬も諦めず、最後までプレーし続けた。そして本当に、残り2分で追いついた。

人生には、大きな壁を感じる瞬間があります。「絶体絶命だ」としか思えない瞬間すら、ある。

でも、そういうときですら、認識は変えられます。壁は、乗り越えるために存在している。そう塗り替えられた瞬間、同じ壁が「行き止まり」から「次のステージへの入口」に変わる。事実は同じまま、踏み出せる自分になっている。

誰のために、ポジティブに塗り替えるのか

最後に、一番大事なことを。

感情をネガティブからポジティブに塗り替えるのは、誰のためでしょうか。

相手のため、チームのため。それもあります。でも僕は、何よりも自分のためだと思っています。

ネガティブな感情のまま抱えていても、事実は1ミリも変わりません。同じ変わらない事実なら、ポジティブに捉えたほうが、自分の気持ちが楽になる。生きる喜びが増える。人生の彩りが変わる。

人は感情でしか動けない。だからこそ、感情の捉え方を自分でデザインできる人は、人生そのものをデザインできるんだと思います。

全体最適。今この瞬間の自分から、少しだけ視野を広げる

ある朝礼で、「今日はひとつだけ言葉を持って帰ってください」と話したことがあります。その言葉が「全体最適」です。

個別最適と全体最適

言葉としてはシンプルです。「全体」にとって「最適」な選択を取る。

理解のコツは、対義語から入ることです。全体最適の反対は、個別最適

個別最適とは、すごく小さい範囲に対する最適のことです。私だけ良ければいい。今この瞬間だけ良ければいい。自分のチームだけ良ければいい。どれも、その範囲の中では「最適」なんです。だから厄介なんです。悪意ではなく、最適化の範囲が狭いだけ。

全体最適は、その範囲を広げます。自分だけでなく会社全体。会社だけでなく地域全体。そして空間だけでなく時間も、今この瞬間だけでなく、5年後、10年後も続いていくかという軸まで含めて、最適を考える。

電話1本の全体最適

抽象論だけだと使えないので、具体例をふたつ。

ひとつめは、電話応対です。

「自分の声なんて誰も聞いていないから、雑な話し方でもいいだろう」。これは個別最適です。その瞬間の自分は楽だから。

でも、電話をかけてきた人にとって、その1本が会社との最初の接点かもしれません。100人中99人が丁寧でも、たまたま出た1人が雑なら、相手の中では会社全体がそういう会社になる。個人の30秒の楽が、組織が何年もかけて積み上げた信頼と交換されてしまう。割に合わないトレードです。

言いにくいことを言うか

ふたつめは、もっと日常的な場面です。会議で違和感を覚えた。でも言いにくい。

個別最適の選択は明快です。「その瞬間、自分が嫌な思いをしたくないから、言わない」。空気は壊れないし、自分も傷つかない。その場では、確かに最適なんです。

全体最適の選択はこうなります。「言うことで組織が良くなり、5年後もサービスを提供し続けられるなら、一瞬しんどくても、言ってみる」

どちらを選ぶかで、その場の空気は変わりませんが、5年後の組織は変わります。

「そういう瞬間にこそ」

誤解のないように言うと、個別最適を責めたいわけではありません。

人間はどうしても、今この瞬間の快適さに引っ張られます。僕もです。それは生き物としての初期設定であって、恥じることではない。

だから僕がお願いしたのは、こうです。個別最適に引っ張られそうになる、まさにその瞬間にこそ、頭のどこかで「全体最適」という言葉を思い出してほしい。

みんなにとってはどうか。この先にとってはどうか。自分の部署だけでなく、隣の部署にとってはどうか。問いをひとつ足すだけで、同じ状況から違う選択肢が見えてきます。

視野の広さは、才能ではなく習慣です。そしてこの習慣を持つ人が増えるほど、組織は(たぶん社会も)静かに強くなっていきます。

車は20年で褒められるのに。命について考えたこと

最近、人生の最終盤を過ごされる方々のもとを訪ねる機会が続きました。ホスピス、難病の方が暮らす病棟。そこで考えたことを、朝礼で話しました。

一度も止まらずに動き続けるもの

ふと、思ったことがあります。

車は、20年走ったら「よく走った車だね、丈夫だね」と褒められます。

でも人間は、30年、50年、80年、長い人は100年以上、一度も心臓を止めることなく動き続けます。メンテナンスのための停止すら、一度もない。部品交換もオーバーホールもなしに、数十億回、拍動し続ける。

考えてみれば、ものすごいことです。奇跡的に珍しいもの。それが命です。

誰にも、わからない

そして、その心臓がいつ止まるかは、誰にもわかりません。

80年3ヶ月と3日で止まる人もいれば、20年3ヶ月と5日で止まる人もいる。本人にも、家族にも、医師にも、正確なところは誰にもわからない。

昨晩、僕は目を閉じて眠りました。翌朝この目が開くかどうかは、本当は、確実ではなかった。それでも今朝、目が覚めて、一日を迎えることができている。

毎日を一日ずつ重ねられることは、すべての人間にとって、当たり前ではない。 頭ではわかっていたつもりのこの事実を、命の近くで働いていると、定期的に、実感として突きつけられます。

介護という仕事の本望

僕たちの仕事は、命のすぐ近くにあります。

ご利用者さまの中には、ご自身の残り時間がそう長くないことを感じながら、それでも今日この瞬間を生きている方が、たくさんいらっしゃいます。その方々にとっての「今日」は、無限にある日々の1日ではありません。

だとすれば、僕たちにできることは何か。

できるだけ元気に、長く過ごしていただくこと。そして毎日、新しい発見や、人生の新しい意味や、新しい景色をお届けすること。昨日と同じに見える一日を、昨日とは違う一日にすること。

それがこの仕事の本望だと、僕は思っています。

後悔のない一日を重ねる

この考えは、働く僕たち自身にも返ってきます。

いつ止まるかわからないのは、ご利用者さまの心臓だけではありません。僕のも、あなたのも、同じです。

だからこそ、今日という一日を、自分にとって後悔のない、いい一日にすること。それは単なる自己啓発の標語ではなくて、今日を迎えられなかった誰かへの、生きている者としての礼儀でもあると思うんです。

車なら20年で褒められる。人間の心臓は、その何倍も、黙って動き続けてくれている。そのことに時々気づき直すだけで、目の前の一日の重さは、少し変わってくる気がします。

鳥の目。世界から見ると、日本の介護はブランドである

「鳥の目」という言葉を、朝礼でよく使います。目の前で起こっていることだけでなく、社会の上空から、いま世界がどう動いているかを見る目のことです。

この記事は、中国・深センを訪れた週に、現地からリモートで朝礼に参加して話した内容です。

世界はいま、日本を追いかけている

世界中で、高齢化が進んでいます。そして日本は、その最先端にいます。

これは普段、「課題先進国」というネガティブな文脈で語られます。でも、視点を変えると違う景色が見えてきます。

たとえば中国では、数年前から日本と同じ介護保険制度の実証が行われていて、近くほぼ同じ制度が施行される見込みです。日本が25年かけて作り、改善してきた仕組みを、世界最大の人口を持つ国が、いままさに導入しようとしている。

日本の介護は、世界から「追いかけられている」側なんです。

「日本の介護技術を学んでいます」が、施設の売りになる

現地の介護施設を訪ねると、驚くことがあります。

大きなモニターに、こう掲示されているんです。「私たちは日本の社会福祉法人と連携し、日本の介護技術を学んでいます」。それが、その施設の一番のセールスポイントとして、堂々と掲げられている。

とろみ剤も、介護ベッドも、日本メーカーの製品が事実上の世界標準です。「高齢になったら日本で介護を受けたい」という人、「日本から介護を学びたい」という人が、世界中にいます。

日本国内にいると、介護は「大変な仕事」「人手不足の業界」という語られ方ばかりです。でも一歩外から見れば、日本の介護はブランドです。現場で毎日行われているケアの一つひとつが、世界がお手本にしようとしている技術と文化そのものなんです。

目の前の課題は、未来の世界の課題

もうひとつ、数字の話をします。

中国の人口は日本の約10倍。ということは、これから迎える高齢者の数も、およそ10倍です。

つまり、いま日本の現場が向き合っている課題(人手不足、認知症ケア、在宅と施設のバランス、財源)は、これから必ず、桁違いのスケールで世界中に現れます

世界で最も先進した介護をやっている僕たちが今日出す答えは、僕たちだけのものではありません。未来の世界のどこかで、同じ課題に直面する誰かの参考書になる。だからこそ、目の前の課題を「面倒な仕事」ではなく、長期の視点で、テクノロジーも使いながら「世界に先駆けて解く問題」として捉えたい。

世界は、遠いようで近い

「世界の話なんて、自分には関係ない」と感じるかもしれません。でも、世界は遠いようで、実はすごく近い。

中東で何かが起これば、ガソリン代は1週間で変わります。海の向こうで生まれたAIは、もう僕たちの働き方を変え始めています。逆方向も同じです。あなたが今日目の前の一人に提供したケアは、めぐりめぐって、世界とつながっている。

鳥の目で見ること。それは現場を離れることではなく、現場の価値を正しく知ることだと思います。足元のケアと世界のトレンド、その両方が見えたとき、この仕事の誇りは、もう一段深くなるはずです。

毎週金曜の全社朝礼で話した内容をもとに構成しました。挿絵は、この連載のために描き起こしたものです。