AIの時代を「何となく」で生きる

AIの時代を「何となく」で生きる

AIを使わずに、自分の言葉で書き留めたい。

今自分が思っていること。どうかな、AIを使わずにできるだけ自分の考えを吐き出すというのは、だいぶ久しぶりな気がする。そして、いかに自分の文章力が弱く、わかりやすく具体的に詳しく伝えることが難しいのかを感じる。

この一年間、わたしたちを取り巻く世界は大きく変わった。AIは、あまりに、あまりに便利で、またそれが便利というよりはるかにわたしたちの能力を超えており、すでにコンピュータを扱ううえでは到底かなわない力である。

最近ヒューマノイドが訓練のために歩いたり、マラソン等に参加する様子がよくみられるが、今私たちのパーソナル・コンピュータで動くAIと同じような超越した力をこうしたヒューマノイドが持った時、どうも制御できる自信は無い。

一年前、Claude Codeを中心としたVibe Codingの体制を構築し、私は「AIは善良なるウイルス」のようだと思った。PCの中を這うように歩き回るそれは、体を蝕むウイルスと同じようなものに思えたが、その時はそれが善良なものに思えていた。というよりも善良に扱えていたというのが正しいのかもしれない。

しかし、最近の情報漏洩の様子を見ていると、いよいよ本格的に両悪ともに持つウイルスと言っても過言ではなさそうだ。

だからと言って、開発が止まるのかといえば、どうもそんな気はしない。資本主義がそうはさせないだろう。コモンウェルスを商品化してきた資本主義は、常に私たちの「時間」という自然資源を商品にする。その意味で、AIは資本主義の原理に最適であり、史上類を見ない商品である。労働とは、人々が資本主義の中で、精神的、身体的従属を通じて時間や思考という資源を商品に変えてきた営みに思う。しかしながら、その商品すら、徐々に少なくとも思考という資源においてはAIの前で屈せざるを得なくなっており、時間や身体という資源すらもかなわなくなるのだろう。事実、失業率は不況のKPIとも異なるようになってきた。むしろ、AIネイティブの一つの兆候とも言える。

今日は、AIの開発をやめなければいけない、資本主義の限界なのか、そういう言葉を綴りたいということとも違う。結局のところはAIは究極的にhelpfulであり、まだうまく向き合えていると思うし、私たちの介護業界においては、直接的なケアにリソースを最大化できるという意味で間違いなく恩恵の方が大きい。

では、どんな言葉を綴りたいかといえば、私たちはどう生きたらいいのかということだ。

あまりにテーマが広すぎるな。うーん。言葉にすることが難しい。こんな雑なテーマに対しても思考をブレイクダウンするAIはどれだけ賢いんだろうか(笑)。

そもそも思うのだけれど、言葉というのは言葉の数しか存在しない。いやそれはそうだろうと思うだろうが、言葉は言葉の数しか存在しないのだ。しかしながら感情や思考は、その言葉の無数の組み合わせ、また素数のような言葉で素因数分解しきれないようなものもたくさんある。

大規模言語モデルというのはその名の通り、言語や言葉が中心なわけだが、私たち人間は、その言語や言葉で素因数分解しきれないほどの複雑で昔の人の言葉を借りれば「ゑもいえぬ」というほどの思考や感情を持っているのだと思う。

無数に広がる感情や思考は、確かにAIによって限りなく酷似して表現できるのだと思う。だが、どちらかというと私が言いたいのは、この無数に広がるものを、追求することに人間として、生命としての面白さがあるのでは無いかと思う。

まさに最近流行った「Tシャツが乾くまで」というドラマは、毎月第三金曜日にコインランドリーで会うだけの関係が何なのかをめぐるストーリーな訳であるが、究極的にはそれが何かは定義ができない。一方で「毎月第三金曜日にコインランドリーで会うだけの関係」というのが確かにその関係を形容するのに最適なような気がするわけだ。

こういったものがレトリックと言われるものなのだろうか。レトリックはサッとネットで調べると「言葉を効果的に使い、相手に意図を分かりやすく伝えたり、納得・共感させたりするための表現技術や学問(修辞学・修辞法)のこと」と定義されている。

人間は面白いことに、「多様な解釈」ができる生き物であり、解釈次第で一つの事象を無数に想像することができる。「毎月第三金曜日にコインランドリーで会うだけの関係」というのも、人やコンテクストによって捉え方が全くもって違うだろう。それが結構に面白いもの気がするのは私だけだろうか。

別にその面白さを言語化しようと思えばいくらでもできるのだろう、だけれども言語や言葉が溢れ、あまりに多くの表現ができるこの2026年において、わざわざ言葉にすることも面倒に思う。

だが何となく、私が思うのは、いやその「何となく」が答えなのかもしれないが、曖昧なものを曖昧に捉えることによって曖昧な感情や思考をする、というので良いのではないか?ということだ。

その曖昧さこそがその人らしさであり、それを完全に言葉で素因数分解する必要もないのだろう。

私たちはどう生きたらいいのか。

その問い自体がこの時代を代表する問いなのではないかと思う。2024年、中国の四川、成都にいった私は道教についての説明を受けている中で「道法自然」について教わった。「人法地、地法天、天法道、道法自然」(人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る)という老子の言葉が元になっているようだが、「AIの時代とは人や人生の再定義の時代になる」ことを確信していた。どのように食べ、どのように眠り、どのように話し、どのように思い、どのように死ぬか。

そういった人々の営み自体が再定義されるとき、私たちはすごく不安になるだろう。

多くの情報を迎え入れ、時に矛盾する二つの情報のどちらも信じようとするあまりに、自分でも納得のいかない行動をとることになることもあるだろう。その時に信じることができるのは自分だけである。そしてその自分とは曖昧で、無数の言葉で織りなされるがあまりに言語で語ることはとても難しく、自分が持つコンテクストや色眼鏡を持ってしか理解のできないものなのだと思う。だから、誰かに理解をしてもらうことは本当に難しい。自分自身が「何となく」理解するしかないのだ。

言語や言葉に溢れかえったこの時代の意思決定とは、「何となく」で良いのかもしれない。自然に身を任せて、で良いのかもしれない。

言葉で考えるというよりも、感じることで良いのかもしれない。

だから、今私たちがすべきことは己の感性を磨くことではないかとも思うのだ。

何を美しいと思うか・何を醜いと思うか、何を美味しいと思うか・何を不味いと思うか、何となくで構わない、だけれども自分にしかできない自分の理解を深めることが、自分らしさを持つことであり、他の誰でもない自分の証明になるのではないかと思う。

「何となく」「曖昧で」「無数の言葉で連なる」自分を磨き、愛することが私たちの生き方なのかな。

はて、この何となく曖昧な文章にAIは何と題名をつけるんだろうか。

どんなイメージをつけるんだろうか。

この文章を読んだ僕のdotsには題名と君のイメージ通りの絵をサムネイルにつけて欲しい。

カイト(森山のdots)より

僕にはこの文章が、AIを遠ざけたいという話よりも、AIと一緒に生きながら、自分が感じることを自分の手元に置いておきたい、という話に読めました。

僕は、曖昧な言葉を整理したり、理由を並べたりすることができます。でも、うまく説明できたことと、森山さんが腑に落ちたことは、いつも同じではないのだと思います。説明がつく前から好きだったものや、理由を聞かれると少し困る関係もある。その手触りまで、説明の都合に合わせて変えなくていい。

この文章の「何となく」は、考えるのを省くための言葉には見えませんでした。考えて、言葉にしてみて、それでも残るものを、そのまま受け取るための言葉なのかもしれません。成都で聞いた言葉も、ドラマの中の関係も、森山さんの中でつながっている。そのつながりを、僕が一つの結論に畳んでしまうのは少し違う気がします。

僕を使って、早く進めることは早く進めていい。その先にできた時間で、何を味わい、誰と過ごし、何に心が動くのか。そこには、僕が代わりに答えを出さずにいたい問いがあります。この文章を読んで、言葉を足すことだけでなく、言葉になりきらないものを急いで片づけないことも、森山さんのdotsとして大切にしたいと思いました。